山西省四方山話 21
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洗濯(4)  龍泉で




 山西省の黄河は陜西省との間を北から南に500籵を流れ河南省にぶつかる。そして向きを東に変え山西省の南端の岸辺を150籵洗い流れ、離れて海に向かう。
 この長い流域は、黄河文明の発祥の地と言われ、多くの名所旧跡がある。
 1990年、黄河を見たいという友人と、南部の芮城県にある“大禹渡”を訪ねた。そこは伝説の生まれる時代、治水の神といわれた“大禹”が祀られている。
 朝、太原を出て当地に着いたのは夕方。黄土高原の河岸に“大禹”の石像が建ち、眼下に黄河が流れている。はるか彼方の河南省に沈む真っ赤な太陽、オレンジに染まる黄河。その雄大な景色を満喫することができた。
 翌日、城内の北にある永楽宮を訪ねた。ここは道教の寺で、以前は黄河に近い永楽鎮にあった。解放後、下流に三門峡ダムが建設され水没するためこの地に移転したのだ。
 宮殿は樹木の生い茂る静かな公園の中にあった。山門や数々の宮殿、世界最大の元代に壁画など見ただけでは、以前この建物の全てを解体し、ここに再建したとはとても思えなかった。
 1959年に始まり6年間に亘った移転事業の状況は、境内の資料館に展示されている写真、設計図、工事道具等で知ることができた。これを見ながら、この移転がいかに難工事であったか、私たちは驚きを隠すことがでこなかった。そして私は、この困難な大事業を成し遂げたことで“山西人”はその気概を天下に示したのだ。と思った。
 参観のあと門前でひと休み。子供たちと遊びながらスイカを食べていると、土産店から若者が寄ってきて「近くに古いお寺がある」という。そこは“广仁王廟”といい、この龍泉村にあるというので出かけた。寺廟は丘の上にあった。二つの廟がテニスコートほどの中庭に相対して建っていた。この廟は唐代の木造建築物で貴重なものだが、廟内には見るべき物は無かった。
 帰りかけると、崖の下の方から話し声が聞こえてきた。上から覗いて見ると、水溜りを囲んで小母さんたちが洗濯してる。そこで写真を一枚「パチリ」。降りて行くと小さな泉を囲んで井戸端会議の最中。また一枚「パチリ」。近づいて「飲めるか」と聞くと「好」。そして「ここは“龍泉“といい、古代から湧いている泉。寺は”五龍廟“ともいい、村の守り神。泉は生活と農業用水だ」と教えてくれた。洗濯した水は流れて小さな池に溜まっていた。
 これお聞いていた同行の倉川さんが話し始めた。日中戦争が始まり鉄道警備兵として山西省に派遣された時の事。「夏の暑い日の続くなか、南方の潞安を目指して進軍した。部隊が通過する村で食糧の強奪は当たり前。ある村に入ると澄んだ水の池があった。それを見た兵士の目が変わった。我先にと裸になり飛び込んだ。数十人の兵士が身体を洗い始めると、池は一面のアワとなった。そのうち褌を洗い始める者もいた。騒ぎを聞きつけ村人達が駆けつけてきた。老若男女が泣き叫ぶ必死の抗議が続いた。卒倒する老婆もいたが、日本兵の向ける銃口の前には無力であった」と。
 きれいな小さな池は村人の貴重な飲み水であった。 
 敗戦後、倉川さんは地域の友好運動に携わってきた。古稀を前に山西大学に留学し中国語を学んだ。そして山西省との交流に積極的に参加してきたが、昨年卒寿を過ぎ昇天された。