山西省四方山話 19
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洗濯(2)  湫水河にて




 臨県は太原から西へ約150籵にある。県の西は黄河の晋陝峡谷に面し、県のすべてが黄土高原で、工場は少ない、農業が主、特産物は棗だけが有名で、省内の最も貧しい地域のひとつである。
この地の貧しいが故に進学できない失学児童の支援活動を、富士見市日中友好協会が始めたのは1999年。それ以後、有志による学費援助は2010年まで続き数百人の児童を就学させた。

 2000年9月、私たち数名はこの子供たちに会いに出かけた。訪問した寨則上小学校で全校生徒に囲まれる大歓迎、村人の住む窰洞(ヤオトン)にも招かれ、その穴倉の様な住居に皆興味津々であった。その学校の先生から近くに名所があると聞いて出かけた。そこは県城の真ん中を二分して流れる湫水河が、黄河に合流する磧口鎮の村にある旧い豪邸であるという。

 その辺りの街は陸路の交通が発達する近代まで黄河の水運によって栄えた。今も明清時代の栄華の面影を多く残しているのだろう。
 湫水河を右手に眺め西に向かう。しだいに川幅が広くなり、村人があちこちで洗濯をしている。
 対岸の岩山の麓に城の様な建物が見えてきた。渡って行きたいが橋が見当たらない。様子を見に河原に降りて行く。流れの中にある石の上で洗濯している娘さんに「写真はいいか?」とパチリ。「橋は有るか」と聞くと「近くには無い」。「渡れるか」と聞くと「車はダメ、人は歩ける」と、そして娘さんは親切にも飛び石の有る浅瀬まで案内してくれた。
 対岸の土手を登ると、そこが村の入り口なのか西湾村と刻まれた碑が建っていた。 すぐ先に城の様に見えた屋敷は、清代から11代続いている陳氏邸だった。
 県から同行してくれた共青団の李さんと中に入る。豪邸は岩山に張り付いた磚(レンガ)の三階建ての窰洞住居。中庭の棗が実をたわわに付けている。すると李さんその木を足で蹴飛ばし実を落としてくれた。生で食べるのは初めてだ。青いが齧ると甘いリンゴのようで美味しい。騒ぎを聞きつけヤオトンの中から老婆が出てきた。「ゆっくり食べてゆきな」と部屋に招いてくれ、見知らぬ人達なのにお茶まで出してくれる。そして屋敷の説明をし、ヤオトンの中も案内してくれた。奥は二又に分かれ甕、壺、俵、箱などが積まれ倉庫になっている。
 1942年、この村に侵攻した日本軍は最上階を砲撃、兵隊がこの奥まで侵入し食糧を強奪したという。「メシメシ、ヨシ、バカヤロー」という日本語も覚えていた。 居室も見ないかと隣のヤオトンに行く。部屋の中に真新しい材木が積まれてある。同行の三上さんが不思議に思って「これは何に使うのか」と聞くと「これは子供が用意してくれた私の棺桶、孝行な息子だ」お婆さん、これには三上さんビックリ。
 階上も見なくてはと登って行くと、楼上の部屋の中で数人の小母さんが何か焼いている。良く見ると手作りの月餅だ。皆、間近に見るのは初めてだ。覗き込んでいると「食べるか」と一個づつくれた。餡は山西省独特の香辛料と黒砂糖に木の実だ。焼きたてであまりの美味しさに三上さん、ザルに盛られた月餅の山を見て「土産に買って行きたい」と。「幾つ」と小母さん、「全部」と三上さん、これには小母さんたちがビックリ。「これは仲秋の名月に帰ってくる家族のものだ」と言ってまた一個づづくれた。謝謝。
 最上階に登ると見晴らしがいい。風水の占いで最適と言われる「背山面水」の地に建てれていた。周りを眺めていると庭の端に箱が並べられている。近づくと蜜蜂が舞っている、養蜂だ。家の人に「欲しい」と言うと「好」と部屋に案内される。並んでいる大壺から匙ですくい小皿に垂らしてくれた。

 初めて口にするクセのある味と香り、棗の蜜だ。値段を聞くと、1斤(500グラム)=8元(100円)安い。それにサッパリした味の槐(ニセアカシア)もある。こちらは棗より少し高いと言った。珍しいので土産にと、皆2〜3本づづ買って、再見。
日本軍の侵略など、忘れたように明るい村人の笑顔が忘れられない。