私が初めて山西省太原市を訪れたのは1979年の冬であった。
その訪問から帰って間もなく、ある新聞のコラムに「私の陳さんのこと」という話が載った。それは、あの中国への侵略戦争末期における一つのエピソードにすぎないものだが、私自身の「陳さんのこと」を思い出させるものであった。
そのコラムは「日本租界に天秤棒を肩に野菜を売りに来るチンさんと呼んでいた青年だ。当時、上海の街を我がもの顔に闊歩していた驕れる日本人家族にも引き揚げの日がきた。
敗戦を目前にしたその引き揚げの集結地に、陳さんが茶を入れた魔法瓶と肉饅頭をたずさえ立っているではないか。
亡き母の話によれば、陳さんが暮らしに困ったときわずかばかりの金を用立てたことがあったという。
だが石をもて追われてゆく者との離別に、それ故のみ二日も仕事を休んだのだろうか[十ネンモシタラ、マタコレルヨ]と埠頭で手を握られたとき、少年の胸は恥ずかしさでいっぱいになり答える言葉もなかった・・・・・・・
手にあまるほどの荷物を下げて疲れ切ってタラップを登り振りかえると、埠頭のはずれで手を振り、何度も頭を下げる陳さんの姿が、暮色のなかでおぼろな点のように見えた」と結んであった。
その「話」から三十数年たってから私は中国を訪問した。太原は春節をひかえ、街のいたる所で爆竹が鳴り、路地に並ぶ屋台や広場の自由市場は賑わっていた。外国の観光客に開放されて間のないこの街は、我々日本人が珍しいのか周りにはすぐに人垣ができた。五一広場の角にある「晋陽飯店」での昼食をとり、寒いなか三々五々繁華街の散策にでた。
私たちが路地から路地へと店を覗きながら歩いていると「五一理髪店」の看板が目に入った。すると訪問団員の女性が「髪を洗ってもらいたい」と言う。店内は暖房がきいていて暖かだ。
手前が男性、奥の方が女性専用、そこにはパーマネントのナベを冠った客が何人か座っていた。店員は、外国人が店内を見学に入って来たと思ったのだろう、愛想よく案内してくれたが、女性のいう「髪を洗ってもらいたい」が通じない。
汗だくとなってのジェスチァーも筆談も空しく万事休すであった。
そんな急場に労働者風の青年が現れ、おぼつかない日本語だが何とか通じた。
彼が手にしていた本は独学で勉強しているという日語教科書だ。
気がつくと店の中も外も野次馬がいっぱい寄ってきていた。
もう再び会えることもないだろう青年にお礼を言い、私の出した手帳に彼は「陳端本」と自分の氏名を書いた。「さようなら」・「再見、マタアエルカ」痛いほどの握手だった。
それから三十数年、「私の陳さん」との交流はいまも続いている。この出会いが無ければ、私は「山西省狂い」にはならなかっただろう。
たまに掛かってくる「ナカジマ、イルカ」の電話が楽しみだ。 |