山西省四方山話 5

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物 乞 い




 富士見市日中友好協会がこの10数年続けてきた、僻地の失学児童支援(里親制度)の中で忘れられない里子が何人かいる。その一人が通っている小学校は黄土高原の頂きにあった。
 臨県の県城から南へ走り黄土高原の段々畑を登っていく。「こんな山奥に人が住んでいるのかな」と同行の友人が言うころ、小学校が見えてきた。この陽泉小学校には里子が二人通学している。最近増築したのかきれいな校舎、その横に寄宿舎があった。通学に1日もかかる児童や、家庭の事情などで通学できない児童が多いこの地方の学校は寄宿施設を備えている。
尋ねた里子は2人とも寄宿舎に入っているという。面会の為教員室で待っていると入ってきたのは1人だけで、もう1人はここ数日休んでいるという。両親が盲目のために失学していた児童である。
 臨県の西側は陜西省、その間に有名な黄河が流れている。対岸の佳県にはこの地方で有名な道教の白雲山廟があり、そこで数日前から大祭が始まっていた。
 黄河を見下ろす絶壁に建つこの寺廟群は壮大で、山西省にも信者は多い。黄河にかかる橋がなかったその昔は、参拝者を運ぶ渡し舟が夜通し大河を埋め尽くし壮観だったという。
 学校を休んだ里子は、その大祭に物乞いに出かけた親の面倒をみているという話だった。この学校から7〜80キロは離れているその道観まで、子どもが親の手をひいていったのだ。私は予定を変え、翌日里子を探しにその寺に行くことにした。しかし校長や先生達は口々に「見つけることは不可能」「あまりにも物乞いが多くしかも境内が広い」と引き止めた。
 黄河をわたると参道で、両側にびっしりと屋台が並んでおり、のんびりと歩く参拝客で渋滞している。河川敷の駐車場で車を降り寺に向った。山頂にある本殿への参道はまるで垂直に登るような急な階段で上を見ても道観は見えない。何段あるのだろう。しばらく登ると、階段の両側から物乞いの奏でる楽器の音が聞こえ始めた。鐘や金属を叩く音も混じりあって賑やかである。目を皿のようにして探したが、物乞いたちの中に里子の親子は見つからなかった。
 山頂の本殿から眺める黄河は絶景である。拝殿の前にある大きな香炉に1メートルもあるような太い線香が次々に投げ込まれ燃え上がっている。
 下へ降りる階段の途中で、物乞いの前に置いた缶や茶碗の中から小銭を集めて回っている男を見かけた。仕切り屋なのか手配人なのか、胸の晴れない思いであった。やはり「見つけることは不可能」だった。あきらめて参道に並ぶ屋台を覗きながら歩いていると、ぼろをまとった10歳くらいの女の子が大人の身障者を乗せた台車を引き目の前を駆け抜けていった。唖然と見送った一瞬の光景だった。「親を乗せて引いてるのか、あるいはアルバイトなのか」・・・。
 盲目の親を持つ里子といい、台車を引いて駆け抜けた女の子といい、何というたくましい子たちなのか。


 半年後、太原市において山西省と友好団体の交流会があり、参加したのを機に臨県に足を延ばした。

里 子




 学校に着いたのは夕暮れ時、前に会えなかった里子は寄宿舎にいた。家は近くだが盲目の両親の負担を減らす為、休日だけ帰宅しているという。

 その里子の家に行くことになり、校長が同行してくれた。車から降りて細い山道を下るのだが、左側は千丈の谷、落ちたら命はない。

窰洞(ヤオトン)

 着いた家は窰洞(ヤオトン)長屋、その1軒に里子は入っていった。校長に続いて私も入ったが、外から入ったばかりの目には中は真っ暗に見えた。  なるほど盲目の両親に明かりは必要ない。だが、様子を見に寄ってくれる近所の人のために壁には小さな裸電球がぶら下がっていた。
 「ニイハオ、ニイハオ」大柄な父親の明るい挨拶と笑顔にほっとする。小柄な母親は控えめだが、嬉しそうな顔は薄暗い中でも良く見て取れた。
 商売道具なのか、壁にかかった三味線や二胡。いつの間にか狭い庭が近所の人たちでいっぱいになっている。皆で記念写真を
撮って別れた。帰りの山道、「良くこんなところで子どもを赤ん坊から育てたものだ。もし庭から谷へ落ちたら・・」と同行の岩本さん。