山西省四方山話 7
         10 11
開元鉄牛




 私はこれまでに山西省を数多く訪ねているが、中国人にもあまり知られていない、日本人は知るよしもないニュースを、地方紙で知ることが多い。
 1987年には、太原市郊外で発見された「晋国趙卿墓」をはじめ、永済県の「開元鉄牛」を、1999年には岢嵐県の「宋代万里長城」発見を知ることができた。
 最も興味を引いたのが「開元鉄牛」である。
 そこは山西省の南、黄河の岸辺に建つ古代四大名楼の一つとして有名な「鶴雀楼」の近くにあった。鉄牛は唐代開元年間に、黄河の対岸陜西省とを結ぶ浮橋として架けられた
橋脚で、重量30トンの鋳造鉄牛4頭とそれを守る鉄の武士像で共に発掘された。
 長い年月の間、洪水により両岸の鉄牛は水没しその姿を現さなかったが、1987年夏、村民によって発見され掘り出された。

 1993年夏、鉄牛を見に行く機会が訪れた。中国の友人と日本人2人計3人は、公園入り口で参観料を払い、炎天下の黄河の土手に沿って行くと右手下に小屋があった。まわりに誰もいない。友人が鉄牛に駆けより写真を撮り始めた瞬間、木陰から老人が飛び出してきた。そして大声で怒鳴り始めた。この看板が目に入らないのかと言っているのが態度で分かる。柱に「撮影禁止」と書かれてあった。日本人とわかったのかものすごい剣幕である。同行した年配の趙家言さんが、この人たちは山西大学に日本人留学生を連れてきた日中友好の人だと話すと、理解したのかおとなしくなった。
 韓長勝というその老人は抗日戦時代の話をしだした。日本軍がこの村に侵攻した時、親友2人が日本兵に目の前で虐殺された。が、韓さんは日本の隊長に助けられた。日本軍は韓さんのような中国人の使い走りが必要だったからだ。 落ち着いた韓さんは、待ってるように言うと村に走っていった。手に何枚かのチラシを持って帰ってきた。そしてこれを買ってくれと言う。チラシには開元鉄牛の説明、この地の民謡、漢詩が印刷されていた。1枚1元は少し高いと思ったが、数枚買うと機嫌よく歌を歌いだした。「みよ東海の空あけて……」「色は黒いが南洋じゃ美人……」日本兵が教えてくれたと言う。最後は合唱となった。
 歌い終わるとひとつ頼みがあると言う。私を殺さなかった隊長を探して欲しいのだと。年月日、部隊名、隊長の名前すべて忘れていた。探しようがないと思ったが調べてみると約束した。
 帰国後、厚生省に問い合わせた。役所がどれだけ調べたか、返事は「分からない」であった。
 しばらくして韓さんの息子から手紙がきた。父は年老いているので早く探してほしいとの催促だった。資料が乏しく残念ながら日本政府も探せない旨の返事を出した。
 それから4年後、山西省ははじめての友人と再び鉄牛を見に行った。見覚えのある鉄柵の小屋は変らず、鉄牛は鎮座していた。例の撮影禁止の字も書かれてあった。誰もいないなと思ったとき、木陰から今度は美形の娘が飛び出してきた。薛というその娘は韓さんと同じ村人で、年とった韓さんの代わりに管理人になっているのだった。
 友人が写真を撮りたいと言うと、にこにこして私と一緒なら「好」と言う。
 時代は変っていた。
 鉄牛をバックに何枚かシャッターを押す。帰ったらすぐに送ってほしいと住所を渡された。約束どおりに送るとすぐに返事がきた、また来てほしいと。同封に見合い写真のようなポートレート数枚が入っていた。
 今度訪れたら、次はどんな顔が飛び出てくるのか、楽しみである。