山西省四方山話」について
 私が初めて中国を訪問したのは1970年、日中友好協会派遣の「第一次労働者訪問団」で、目的は両国労働者の交流であった。日本各地から選ばれた団員は
20名。香港経由で中国の深圳に入り、そこから列車で北に向かった。
 当時、国内は文化大革命の真っ直中であった。激動の中を長沙~南京など各地で工場、病院、学校、人民公社等を参観。そこで労働者、農民と交流し北京に入った。二週間余の滞在であったが、各地での名所旧跡の観光は無く、唯一見物できたのは天安門広場。そのあと人民大会堂で周恩来総理と会見することができた。
 山西省は1979年、「埼玉県民友好訪問団」で訪問したのが初めて、太原市で鉄鋼工場、昔陽県で大寨人民公社等を参観。労働者、農民と交流した。その後、
1983年に始めた「埼玉県日中友好協会」の留学生派遣事業で、毎年9月山西大学に留学生を引率。1990年代から中国で始まった「希望工程事業」に協力、希望小学校建設、失学児童支援で五台県、臨県の現地を訪問。2000年代に入り県協会が取り組んだ「山西省緑化事業」に参加。太原市郊外と方山県の植樹祭に参加。
 「山西省四方山話」は、私がこの数十年間、三十数回の山西省訪問の中で省内の僻地を巡り、そこで体験し見聞した記録でもある。

山西省四方山話 1

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中国の一級行政区(市・省)は
31あり、「山西省」はその内の一つである。埼玉県と1982年に友好県省となった。省都の太原市は北京市から西へ500粁の位置にあり、省の面積は15,6万平方粁で埼玉県の約42倍の広さ。人口は約3330万人、行政区は11でその中に市が11あり、その下に小さな市と県が119ある。県の下に鎮・郷があり、村となっている。
 山西省は、中華民族発祥の地の一つである。そこに35の民族が住み、漢民族は99%。石炭の産出量は全国の三分の一を占める所から「煤炭の郷」とよがれている。地形は北に万里の長城、東に太行山脈、西に黄河、そして南に黄河と王屋山と風光明媚な自然に四方を囲まれた、中国でも珍しい「省」と言われている。
 この四方山話は、万里の長城の話から始めますが、その後は気候、風土、特産品、料理、寺廟、景勝地・名所旧跡など、私が現地を訪れ体験したことを交え順次紹介して行きます。

*山西省の北方にある長城は内モンゴルとの境界になっている。北京郊外の八達嶺から連なるこの長城は戦国時代~明代のもの。省内には趙代~清代まで約2000年間にわたり約7000里(1里は500米=3500粁)が筑城されている。これ等は「内城」と呼ばれ、現在は
約3000里が残存している。
*大同県の長城。明代に修築され最も雄大。北方モンゴルとの関所(砦=城堡)となった街は交易で栄え今もその面影を残している。近くに北魏の皇帝墓陵(永固陵)など多くの名所旧跡がある。

大同の長城

 この長城は内モンゴルの境界、黄土高原に入ると一直線に東から西に延びて行く。私は1994年に訪れた時、黄土を盛りそれを突き固め築いた長城の上を歩いたが、それは何処にもある河川の土手のようであった。その長城の近くに築城に関わった人達の子孫が住んでいるのか「長城」という村がある。そこに住む農民から長城の昔話を聞くのも旅の楽しみの一つである。
*偏関県の長城。大同から西に延びた長城は黄河にぶつかる。辺境を守った軍隊の関所跡、石づくりの窰洞(ヤオトン)村落、晋陝峡谷を流れる雄大な黄河の流れと明代の長城の眺めは絶景。そこから黄河に沿って南へと繋がっている長城は保存状態が良い。

老牛湾の長城


近くの黄河に唯一人が住める中州(娘娘灘)がある。そこは漢の文帝が母と共に流されたという伝説がある。2006年、私はその島を見に行ったが、残念にも渡し舟が破損していて渡れなかった。2000年もの昔、皇帝達が歩いた道を辿る旅もいい。
*寧武県の長城。戦国時代から漢・北斉・隋・明代と築城・修築されてきた長城(内城)が幾条も交差している。長城の中で最も古い趙代(紀元前330年)の「紫塞長城」は長城の「祖」と呼ばれ、楼子山頂に数百米が残存している。それに並行して延びる「自然の長城」は、高さ20米もの岩の絶壁で300米余ある。その造られたような光景は珍しい。この県は省内で最も小さいが、長城の他にも景勝地と名所旧跡が最も多い地方。私は万年氷洞、懸棺、懸山村、天池、汾河源流などは訪れたが、興味があった「千年火山」という山には行けなかった。地方の旅には興味が尽きない。
*山陰県に保存状態の良い広武長城がある。高さ8米、長さ500米は金代~明代のもの。この広武古城の上から眺める360度の展望に中原の広大さを実感できる。漢代の戦場の跡に残る戦士の墓といわれる古墳群が遠くに見える。
*岢嵐県に宗代の長城嶺がある。それは1999年に発見された。山奥の嶺から嶺へと石を積み重ね建てたもので、それまで前人未踏の山中にあり知られていなかった。
*離石市から北に延びている北斉長城は、北魏代の長城を利用したと言われ、10の県城を経て居庸関~山海関まで約3000里ある。省内に残る1800里余の大部分は石積みで、南部地域の破損は甚大だが、各地に多くの烽火台(狼煙台)が残されている。
*代県に古代から省の中央部を守る重要な関所である雁門関がある。私は
1992年にその雁門関を訪れた。長城のある峰の麓に歴史を感じる小さな部落がある。わずかな山の斜面だけが耕地の農村。村人は長城に連なる山に山羊を放牧していた。数千年と変わらない生活を営んでいる村に思えた。そんな村を通りすぎ山路を登ると峠に出る。峠の隧道をくぐり抜け振り返ると、山頂に雄大な楼閣が聳え立っている。その姿には圧倒される。
*平定県の東にある太行山脈、それに沿って明代の長城が南北に延びている。唐代の戦場となった娘子関に関所跡と古い街並みが残っている。その北に平型関、六嶺関、南に馬嶺口がある。この長城には他に多くの関所が残っている。北京市から太原市に行く時はこの娘子関の峠を越える。飛行機・列車では素通りだが、いまは高速道路をバスで行くなら途中下車で見物できる。
*楡社県に珍しい唐代長城が有る。それは規模も小さく風化による破損も激しく見る影もない。この地方では農民はジャガイモを「山葯蛋」と呼び、昔から主食にしている。
長城の南にある白北郷の小さな山村に、埼玉県日中友好協会が1997年に「希望小学校」を建てた。私はその年に小学校を訪問したが、長城跡を見学する時間が無かった。それから数年後、村の過疎化が進み学校は廃校となり、校舎は「ジャガイモ」の倉庫となってしまった。
*長治市の南に魏の時代といわれる規模の短い長城があると言われているが、史籍に明らかな記録が無い。
*晋城市の郊外にある長城は年代不詳。関所(天井関)跡が残っている。春秋時代、孔子がこの地を訪れた際、遊んでいた子供達に道を塞がれ引き返したという逸話がある。
*吉県に国内で最も新しい清代の長城が有る。それは黄河に沿って大寧~郷寧まで約80粁。それは太平天国時代に起きた農民蜂起(捻軍)の防御に建てられた。景勝地「壺口瀑布」辺りは黄河に沿った絶壁に平行して築かれている。雄大な城堡(砦)に当時の砲台も有り、往時の面影を残している。その頂上から見下ろす黄河・壺口瀑布の眺めは絵になり一見の価値がある。山の絶壁から下に延びた長城は土手状になり雑草に覆われて、かっての面影は無く今や見る影のない。