山西省四方山話 4
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大同万人坑と拉致(1)




 「山西省は石炭の上にある」と言われている。山西省の北に位置し大量の石炭が埋蔵されている大同には、近代、資源獲得のため世界の列強国が進出していった。
 1937年7月7日、日本軍は盧溝橋事件から北京そして大同へ侵攻、南郊区の炭鉱をいち早く占領、中国人労働者に過酷な作業を強制、石炭の略奪を始めた。
 私は、大同は何回か訪れていたが、1994年、中国の友人と共に初めて南郊区の炭鉱を訪れた。万人坑と隣接する記念館とも入り口に鍵がかかっていた。近くに住む管理人があけてくれたが、一緒に行った中国の友人は中に入らなかった。
(万人坑:日本軍によって犠牲となった労働者の遺骸を「万人」と呼ぶほど沢山、そのまま、後世に伝えていく為に記念館として保存している)
 厚い鉄の扉を入ると中は真っ暗。スポットライトを点けると管理人は扉を閉めて出て行った。
 目が慣れると、坑道が足元から奥に下っている。大きな穴にはミイラになった屍体が累々と地底に繋がっていた。怪我や病気で作業が出来なくなった労働者は、着の身着のまま穴に投げ込まれたという。苦しみもだえながら上まで這い上がり息絶えた形相のものもある。労働力が減ると、地方の農民が拉致されてきたという。
 中国の友人が入館しなかったはずだ。同国人として見るに耐えない惨状がそこにはあった。山西省の「残留日本兵」問題と大同「幼児」事件の究明を責務としていた、「わたしは『蟻の兵隊』だった」(岩波ジュニア新書)の著者、奥村和一さんがこの5月に亡くなった。
 私が中国残留孤児の帰国にかかわる仕事に携わっていた関係からか、奥村さんから生前この炭鉱にまつわるある事件について相談を受けたことがあった。
その事件とは、1945年8月、敗戦となるや炭鉱を支配・管理していた日本人と軍はいち早く帰国を目指した。数日後、子ども達を集めてトラックに乗せ出発した。暫くして空のトラックが戻り日本軍と大人たちは炭鉱を去っていった。大人たちは苦労の末帰国したが、子ども達は一人も戻らなかった・・という事件である。
奥村さんは、真相究明のために何度となく大同まで足を運んだが、分かってきたことは、足手まといになる子ども達は焼き殺されたとか万人坑に埋められたとかいう悲惨な話であった。私への相談というのは、この事件について見聞きした事のある大同からの引揚げ孤児が帰国してはいまいかということであった。しかし、奥村さんには真相をそれ以上解明する時間と体力がなかった。
当時万人坑は20数ヶ所あったが、現在は殆どが埋められているという。話が本当なら、中国人労働者と日本の子ども達が一緒に埋められているという万人坑、あれば何処なのか?
「つらくて黙す人生があれば、語って再生する人がいる。時代体験といった大それた話でなくとも、語れば誰かが学ぼう」
(2011年6月19日 天声人語)

大同万人坑と拉致(2)

 黄河に面した西の端にある臨県は、省内貧困県の一つである。
 富士見市日中友好協会は、多くの市民の善意を取りまとめて1997年より10年間、県内の失学児童(貧困などの理由により学校へ通えない児童)に学費の援助をしてきた。この間、県との打ち合わせや児童との交流などで何回となく辺鄙な郷、鎮、村の学校を訪れた。
 こんな辺鄙な山村にも、日本軍は1938年以降8次にわたって侵攻し三光作戦を繰り広げた。更に漢奸と結託して農民を拉致し大同炭鉱に送り込んだ。
 失学児童20名を援助した安則村にも、1942年に多くの農民が拉致され炭鉱に連行されたという記録が残っていた。
 1999年、世界遺産「五台山寺廟群」がある五台県の豆村鎮上陽村に、富士見市日中友好協会はこれまた多くの善意の結晶として小学校を建てた。
その後、県教育局との打ち合わせや児童との交流で毎年この地を訪れているが、あるとき、教育局との打ち合わせの席に赤シャツの青年がやってきた。名前は白さん。
 故郷を訪ねると東の方角だそうで、そこは五台山から清流の清水河が流れており、この川に沿ってさかのぼると峠を越えずに五台山寺廟群にでられる。その途中に松岩口という村がある。
 1938年、この地に抗日戦争支援のためにカナダの医師べチューンがやってきた。村の鎮守様「龍王廟」を病院に改造し負傷した八路軍兵士の治療をしていたが、日本軍によりお寺は破壊・焼失された。現在、お寺は再建され記念館も隣に建てられている。白さんの実家はこの辺りだ。
 白さんは次のような話をしてくれた。1940年、この地方に侵攻した日本軍は白さんの祖父母の家に「メシメシ」と入ってきた。この地であわ、きび、もろこし、そば、燕麦など穀物は貴重品で、主食は山薬蛋(じゃがいも)である。食べ物を出さなければ「バカヤロー」。 人は殺され家は焼かれ物は強奪される。祖母は涙をのんで「穀物」を炊いて出した。日本兵は「ヨシ」。
 村には「メシメシ」「バカヤロー」「ヨシ」という言葉を知っている老人がいるという。
 日本兵は引き上げるときに、祖父とその友人の二人を拉致していった。祖父と友人は貨物車に押し込められた。中には多くの農民が詰め込まれていた。
何日走ったか、列車の速度が遅くなったとき、2人は飛び降りて脱走した。そして闇夜の荒野を走りに走った。たどり着いた街は天津、しかし友人の姿は見当たらなかった。
 抗日戦争そして国内の解放戦争。戦乱の街で定職はなく乞食同然の生活を10年、そして解放。祖父の足は当然のように五台山に向かった。
五台県の故郷に戻り親族との対面を果たせたが、友人の姿はなかった。その後、祖父は亡くなったが、友人の消息は知れぬままだという。