山西省四方山話 3
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黄土高原の小さな村




 戦国時代から延々2千年の長きにわたり築き続けられた万里の長城も、清朝の時代、吉県に築かれた城壁が最後を飾る。
 清朝の農民圧制に反抗する捻軍(農民蜂起軍)の侵攻を阻止する目的で、黄河の東岸に約80キロを7年間で築いたという。が、これで安心した清朝軍は何回となく打ち破られ、長城はその役を果たさなかった。この長城の廃墟が、黄河の壺口瀑布を見下ろす岩山の絶壁に張り付き残っている。高さ10メートルを越す城壁は、上に砲台があり雄大である。長城の入り口に当たる「河清門」は同治年代に建てられ、今では民家の庭を通してもらわないとたどり着けない。この長城から眺める黄河と瀑布は絶景だ。
 この黄河の上流地域には黄土高原が広がっており、その一角に小さな村「南村坡」がある。山西省を支配していた閻錫山が、1940年、日本軍の侵攻から逃れて立てこもった根拠地である。幹部も兵士も全て、黄土高原に掘った窰洞(ヤオトン)に住んだ。
 ここから眺められる黄河の対岸は陜西省、その奥地、延安には八路軍の根拠地があった。抗日戦争時、閻錫山はこの地で八路軍の朱徳将軍と抗日作戦会議をする一方、その裏で日本軍と密談を繰り返していた。



脱 輪

 そんな歴史のある遺跡は今どうなっているのだろうか。訪れたのは1995年、中国人の梁さんが運転する車で友人3人と共に、黄河から離れて黄土高原を登っていた。車が1台しか通れないような小さなトンネルがあり、その手前で車の前輪が穴に落ちてしまった。助けを借りるべくみんなでトンネルの反対側に出た。出てすぐに農民の郭さん一家が住む窰洞があり、運転手の梁さんはスコップを借りて「一人で大丈夫」と、車まで戻って行った。
梁さんが戻るまでのしばし、我々日本人旅行者は郭さん宅で休ませてもらうことになった。

窰洞の郭さん一家
 今にも崩れそうな窰洞に、郭さん夫婦と女の子2人の4人で住んでいる。日本から持ってきた飴をあげたら美味しそうにしゃぶりながら、小学生くらいの姉は初めて見る外国人に興味津々。こちらも初めて入った窰洞に興味津々。オンドルに上がるのも初体験である。大きな丼で白湯が出された。この地方で茶は貴重品であり、白湯は心のこもった接待の証だ。小さいが香瓜(瓜の種類)も添えられ、実に美味しかった。

村の人たち

 すぐ近くが閻錫山軍の窰洞兵舎群跡だ。黄土がむき出しの窰洞の前に、するどいトゲのサボテンが絡みついた垣根が張り巡らされていた。裏手の丘に、昔は会議場として使われていたのか大きな独立窰洞があり、現在は小学校らしく黄色い声が飛び交っている。
 いつの間にか我々の周りに村人が集まってきた。人の良さそうなおばあさんが「今夜は泊まってゆきな」と寄ってきたがもちろん初対面。窰洞に泊まることは長年の夢だったが・・。だが旅の予定もあってそうは行かず、気持ちは嬉しかったが、残念。 再見! 再見!

それから十年



 黄河壺口瀑布を再訪。南村坡(現在は克難坡)が気になっていた。吉県の県城からの道も新しくなっていた。黄河に出ると、景色が一変していた。何もなかった川岸には派手なホテルやけばけばしい土産店が乱立している。関所もあって黄河を見るのに金のかかる時代になっていた。黄河を左に、長城を右に黄土高原に向った。りんご畑を登りきるとトンネルがある。以前脱輪した所だ。ここにも関所があった。トンネルをくぐるのにも金、その先にある閻錫山軍窰洞兵舎群跡の参観料だ。黄土がむき出しだった窰洞兵舎群はきれいに修復・整備され、内壁は漆喰も塗られていた。小学校として使われていた大きな窰洞は「忠烈祠」となり、全くの観光地となっていた。
土産店のおばさんに郭さんの消息を聞くと、もう数年前に臨汾市に出て行ってしまったという。泊まっていけと誘ってくれたおばあさんは亡くなっていた。

廃  墟

黄土高原の一角、白湯の接待を受けた見覚えのある窰洞が、住む人もなく廃屋となってひっそりと残っていた。団欒の場であるはずの庭には、あの時にはあった石のテーブルやかまど、そしてたわわに実をつけていた大きな山椒の木もなかった。ただ、入り口に掛かっている色褪せた水玉模様の暖簾が、ここにもかつては人が住んでいたことを唯一物語っていた。帰りがけの窰洞で、青年が麺を打っていた。「食べていけ」と言ってくれたが、今回もやはり時間がなく、気持ちだけ頂いて・・再見!