
戦国時代から延々2千年の長きにわたり築き続けられた万里の長城も、清朝の時代、吉県に築かれた城壁が最後を飾る。
清朝の農民圧制に反抗する捻軍(農民蜂起軍)の侵攻を阻止する目的で、黄河の東岸に約80キロを7年間で築いたという。が、これで安心した清朝軍は何回となく打ち破られ、長城はその役を果たさなかった。この長城の廃墟が、黄河の壺口瀑布を見下ろす岩山の絶壁に張り付き残っている。高さ10メートルを越す城壁は、上に砲台があり雄大である。長城の入り口に当たる「河清門」は同治年代に建てられ、今では民家の庭を通してもらわないとたどり着けない。この長城から眺める黄河と瀑布は絶景だ。
この黄河の上流地域には黄土高原が広がっており、その一角に小さな村「南村坡」がある。山西省を支配していた閻錫山が、1940年、日本軍の侵攻から逃れて立てこもった根拠地である。幹部も兵士も全て、黄土高原に掘った窰洞(ヤオトン)に住んだ。
ここから眺められる黄河の対岸は陜西省、その奥地、延安には八路軍の根拠地があった。抗日戦争時、閻錫山はこの地で八路軍の朱徳将軍と抗日作戦会議をする一方、その裏で日本軍と密談を繰り返していた。 |
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