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その後の里子を訪ねて(20)

西烟鎮の夜は庁舎の事務室であった。中国では昼寝の習慣がある。休憩や宿直のため事務室にベットとか長椅子が置いてあった。役人に案内されたのは二階で南向きの部屋。窓際に机が二つ、その手前にベットがある。
 今夜はここでと言ったあと、役人は水の入った花柄の琺瑯引き洗面器と湯の入った魔法瓶を持ってきてくれた。早速タオルを湿し顔と体を拭いた。すると驚いたことにシャワーを浴びた以上にサッパリした。乾燥の度合いが日本とまったく違っていた。
 窓から見渡す村に灯りはなく暗黒の世界。考えてもいなかった未知の地で眺める満天の星空、そこに流れる雄大な天の川になぜか感動。
 翌朝、部屋に「メシ」と老人が呼びに来た。どう見ても農民の様な感じで、賄いを頼まれているのか。庁舎の横にある小さな建てものに案内された。中にはテーブルが何台か置いてあり職員食堂だ。二人が座ったテーブルに丼が運ばれてきた。何かメシが薄茶色、メガネを掛けて見るとコメが見当たらない。雑穀メシだ。コーリャンの中に豆やジャガイモ、南瓜などが入っている。もう一つの椀には薄切りトマトと卵トジのスープ。雑穀メシを口にして思い出したのは、日本の敗戦時の欠食児童であった時代。潰れたアルミの弁当箱で食った冷えたコーリャンメシの味であった。しかし、このメシには私の好物のマメやイモが入っている。噛んでいると味が出てくる、旨くはないが「空き腹に不味い物無し」だ。
 隣で食っているS君、何かブツブツ言っている。メシを二口三口食ったが不味くてギブアップという。彼は留学していた数年間に中国全土を廻ったと、そして何処に行っても其処の料理は何でも食ってきたと豪語していた。そんな「事」を忘れたのか、スープだけ飲んでご馳走さまだ。「今どきの若者は」と、口に出かかった。
 朝食の後、昨日行けなかった小学校に向かった。登れなかった高原の坂道は固まっていた。校門に入ると狭い校庭の奥に平屋の校舎。教室が一つの小さな学校だ。横の崖に崩れたヤオトンがある。以前はそこが教室であったのか。
 教室に入ると薄暗い。なぜかガラス窓の下半分に新聞紙が貼ってある。斜め上から射し込んだ太陽光線が児童の顔半分を照らしている。教壇には若い女の先生。中学校を卒業したばかりといい、児童は1年生から5年生の一クラスで約30人と説明してくれた。
 僻地では一人の先生が学年の異なる児童を纏めて教えている学校が多い。この学校を見て、以前富士見市で上映した中国映画「あの子を探して」を思い出した。山村の小さな学校、娘のような先生、小さな子から大きい子の混ざった教室。映画の舞台となった「学校」と瓜二つであった。
 S君は児童の間を廻りながら、一人ひとりのノートや教科書を覗いている。筆箱も開け中をチェックしている。見ると鉛筆よりボールペンを使っている子が多い。それはボールペンが鉛筆より安く便利なのか。休み時間になるとS君、得意の中国語で子どもたちと話をしている。日本の小学校の話のようだが、私には良く解からない。
 校門の前に全員集まってもらい記念写真。皆と「再見」、「再見」と握手、握手。
 帰国後、鎮政府に礼状とその集合写真を送ったが返事は無い。


*南関小学校
 「十年一昔」というが、今回の臨県訪問は正に十年振り。その県城の様変わりには驚いた。繁華街にあったテント張りの屋台は消え、目抜き道りは拡張されていた。表通りに並ぶ洋装店、化粧品店、家電の店などは、北京の王府井にある店と間違えるようなモダンな装い。しかし、一歩路地に入ると以前と変わらない雑踏。上半身裸の若者たちが家の前で餅を揚げたり焼いたり商いをしている。公園や広場には自由市場の露店も並び、まだ昔の風情が残っていた。
 臨県は省内で最も貧しいと言われているが、城内の小学校はコンクリートの2~3階建て、校庭も広く日本と変わらない。違うのは多くの校庭がコンクリートかレンガで舗装されていることだ。黄土の校庭は雨が降るとドロドロになる。校舎内や教室は土足で入るからなのか。
 この南関小学校は城内の南にあり、県内で一、二を争う有名校という。2006年6月、初めて須藤会長と里子を訪ねた。案内してくれたのは当時の共青団の馬琳委員。学校に里子は3年と4年の男兄弟と4年の女の子で3人が在学していた。校長室に里子を呼んでくれ話を聞くことができた。男の子の母親は長年の病気で動けない、授業は数学と理科が好きと。女の子の親は離婚、祖母に育てられてきた、勉強は国語が好きと話してくれた。それまで失学児童は辺鄙な村の子どもと思っていたが、馬さんはこの城内にも資金不足でまだ援助できない失学児童が居るという。
 皆と写真を撮っていると一人の児童が入ってきた。馬さんの娘さんで、授業が終り一緒に帰宅するのだという。
 帰国し暫くすると、珍しいことに三人の里子から手紙が届いた。先生の指導の賜物だ。
 今回の訪問は5月20日の午後、李書記の案内で訪れた。学校の校門が以前より大きくなっていたが、校舎と校庭は変わっていなかった。出迎えてくれた趙麗春校長に里子の名簿を見せると、校長は新任で当時のことは知らないといったが、以前からの老師(先生)が居ると呼んでくれた。駆けつけてくれた先生も名簿を見ていたが、担任では無かったのでどんな児童であったか思い出せないといい、間違っていた里子の名を直してくれた。そして里子たちは卒業して何年にもなる、今は城内に居ないと思うが、何か消息が分かったら共青団にメールすると約束してくれた。