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その後の里子を訪ねて(16)

1997年から始めた「失学児童」支援で里子が在学する学校の訪問は何時も事前に連絡することなく、こちらの都合で何処にも突然に訪れていた。と言うのは連絡の方法が無かったからである。当時の学校には電話は無く手紙を出しても届くことは無かった。
 以前、この地方のヤオトンに住む大野さんに手紙を出したことがあったが、返事が無かった。その後に会った時、彼女はここに10年も住んでいるが郵便物が届いたことは無いといった。そもそもこの地方に昔から郵便局は無く、文通というものが無く、郵便配達という制度が無いのか。
 私は旅の途中、学校を見つけると寄りたくなる。そこでどの学校も突然の訪問である。前に書いた萬栄県の廟前小学校も突然の訪問であった。たまたま入った教室に先生は居なかった。これが幸いして、入った瞬間の子供たちのビックリ顔、大騒ぎの教室を写真に撮ることができた。そのあと、当時流行っていたインスタントカメラでも撮り、でき立ての写真を見せるとこれまた大騒ぎ、写真を取り合い黒山になる。何枚か撮ってプレゼント。笑顔に送られ「再見」!「再見」!。
 *高家塔小学校
 5月22日の午後、高家坪村から磧口鎮に戻り北にある高家塔村に向かった。黄河沿いの道を走ると直ぐに村が見えてきた。入って行くと道端に露店が並んだ自由市場が賑わっている。朝からメシを食っていない。まずは飯屋を探すと直ぐに見つかった。薄暗い店内に誰もいない。狭い土間にテーブルが3~4台。厨房から出てきた娘さんに拉麺は有るかと聞くと「有」。注文してから「厠所」と尋ねると、私の発音は悪いが通じたのか黙って勝手口を指さした。外に出ると確かに厠所は有った。しかし扉を開けると汚物が散らかり足の踏み場がない。スニーカーが汚れそうで入る勇気がでない。そこで裏に広がる林に向かった。大自然の「厠所」ほど気持ちのいいものはない。そんな田舎の飯店でも拉麺は旨かった。
 その村から高家塔村は近かった。村の入り口にある学校が見えてきた。見覚えにある白いタイル張りの門柱、しかし学校名の看板が無い。鉄柵の扉は鎖錠され一目で廃校と分かった。私は、「希望工程」の援助でコンクリート二階建ての校舎が増設された学校が廃校になっているとは考えてもいなかった。扉越しに中を覗くと校庭に雑草が繁っているが、ヤオトン校舎も新校舎も荒れた感じはなく当時の面影を残していた。眺めていると、里子や先生方と写真を撮った情景が浮かんできて、今にもヤオトン教室から里子たちが飛び出して来るような錯覚。
 学校の近くにヤオトン部落があった。以前、そこの老人たちを写真に撮ったことがあり尋ねた。しかし、その部落は跡形もなく整地され、井戸が有った辺りに貯水の為かコンクリートの小屋が建っていた。交通事情が良くなった村が過疎化して行く実体を目の当たりにして、私は言葉が無かった。
 この村は、1948年3月に毛澤東と解放軍幹部が陝西省から黄河を渡り着岸した所だ。どんな岸辺なのか見に行った。そこには最近建てたのか、日本人には考えられないドでかい記念塔が立っていた。黄河の河岸には大きな岩が横たわり、それが天然の埠頭になっている。私は、なぜこの地に解放軍が着岸したのか長年の疑問であったが、その風景を眺めそのワケが分かった。村に戻り村民が住んでいる部落を探した。数軒が並ぶヤオトン長屋を見つけ、馬さんから声を掛けてもらった。直ぐに何人かの娘さんが顔を出した。そこで高家塔小学校に在学していた里子の話をして8人の名簿を見てもらった。娘さんたちは里子と同年代なのか、「高利龍」以外の里子の名前を覚えていた。「高林利」は結婚して村を出た。「高静」と「高志強」は兄弟。他の里子の消息は分からないと。馬さんと娘さんの会話を聞いていて、私は良くは分からないが里子たちは学校から遠く離れた地方に住んでいた様だ。
 一昔も前のことだ。分からなくても仕方のないことであろう。