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その後の里子を訪ねて(19)

盂県の西烟鎮郊外で井戸を見た後、私とS君が見学したいと思っていた学校を案内してもらった。最初に向かったのは黄土高原にある小学校。街を抜け郊外にでると高原が見えてきた。学校はその中腹にある。車は狭い一本道を登り始めた。対向車が来たらすれ違えない。幸い上から車は来なかったが坂が急になるとタイヤがスリップして登れない。先ほど降った俄雨で黄土の道はドロドロになっていて戻るしかなかった。崔さんバックミラーを見ながら下り始めた。脱輪すれば崖から落ち一巻の終わりだ。しかしさすがプロの運転手、難なく下りられた。
 そこで役人は少し離れているが、と言って中学校に案内してくれた。高原から離れしばらく走り村に入ると大きな校舎が見えてきた。小中合併校で校庭も広い。最初は小学校に案内されたが教室には誰もいない。授業が終わっていて勉強しているところは見られなかった。先生は校庭で遊んでいた児童を集めてくれた。小さい子、大きい子で三十人「ニ―ハオ」「ニーハオ」と皆と握手のあと記念写真を撮って「再見」。
 隣の中学校は授業中で、校長先生が教室を案内してくれた。生徒たちの真剣な眼差しと張りつめた空気。私は日本と違った雰囲気を感じた。机の端に辞書など教材が高く積まれている。机の引き出しが狭いのか、カバンに入れ切れないのか、持ち運べる量でない。何時も机の上に置いてあるようだ。これも日本では見られない光景。
 先生は、最近の小学生は進学志向で中学に進学する児童が多い。そこで学校の増築に追われているという。地方からの生徒は寄宿舎生活だ。建築中の宿舎を見たが教室の様な広さ。そこに50センチほど高く床が張られている。仕切りは無く、そこがベットになるというから大部屋だ。窓ガラスは割れた所ものあり、まだ完成していない様で殺風景な感じであった。需要に供給が追いつかないのが現状の様だ。
 見学を終え、校門に来ると大勢の子どもが集まっている。先ほど写真を撮った小学生たちだ。何かと聞いてみると、これから家に遊びに来て欲しいという。この地は、かつて侵攻した日本軍の三光作戦によって甚大な被害を受けた村だ。当時の惨状を体験している親たちが私たち日本人をどんな気持ちで会うのか、そして何を話すのか一抹の不安はあった。しかし、これは願ってもない機会と思った。大声で唄いながら歩く子どもと手を繋いで行った。高い土塀の農家が並ぶ村。その路地を幾つか曲がって行くと大きな平屋の家に着いた。広い庭に鶏が何羽も遊んでいる。子どもは家族を呼んでいたが返事が無い。まだ家族は野良仕事から帰っていなく誰も出てこない。私は何か気が抜けた感じがした。村の人たちの話を聞くことは出来なかったが、子どもたちの気持ちは本当に有り難かった。
 このことがあって鎮に着いた時は日も暮れていた。役人は、これから盂県の県城に戻っても夜遅くなる。宿泊する飯店が有るかどうか分からない。この鎮に泊まると良いと政府庁舎に帰った。
 そう言われて思い出したのが1993年の秋。山西省の南を旅した時、侯馬市に向かう途中橋梁の崩落で渋滞となり4、5時間立ち往生。城内に着いたのは夜中。そこで飯店を探すのに苦労したかいがあった。(渋滞1、「橋の崩落」参照)
 
 *高家湾小学校
 5月22日の午前に槐樹坪小学校を訪れた後、次は高家湾小学校に向かった。そこは県城からの幹線道路を更に40粁ほど西に行った克虎寨鎮にある。小学校に向かう途中、梁家会村で昼食と小さな飯店に入った。薄暗い店内に甲高い客の声が響き渡っている。まずは拉麺を注文してから馬さんとビールで乾杯。崔さんは呑まない。三人で鱈腹食って勘定は74元(約、¥1000円)。安い。
 克虎寨鎮の西側は黄河に面している。小学校はその黄河の流れを見下ろす黄土高原にある。(里子を訪ねて、№14参照)。鎮の中央を横切る幹線道路は黄河を渡ると陝西省に入る。車は橋の手前で右折し河に沿って北に向かう。暫く走りこの辺りかと高原に入ったが崔さんは初めての道。誰かに道を聞こうと周りを見ながら走る。道路脇の家の前に立っている男性を見つけた。話を聞きに降りる崔さんに私と馬さんも付いていった。この先に小学校があるか男性に尋ねた。まだ学校は廃校になっていないか聞くと、学校は縮小されたがこの道の先にある。しかし今日は休校日で先生は不在だが生徒は居る、と教えてくれた。
 私が、この学校に十数年前に在学していた里子の話をすると、親切にも男性は家で聞くと中に案内してくれた。門を入ると家は八連の独立ヤオトンで庭も広い、しかし農家ではない感じがした。
 2004年に訪ねた時、この小学校には9人の里子が在学していた。その里子たちの名簿を見た男性は、知っている子はいないが同じ年代の青年が近くにいると、スマホで呼んでくれた。すぐに青年はバイクで来てくれた。青年も知っている里子はいなかったが、二人は手分けして先生や同級生を探してくれた。話を聞いて一人のオヤジさんが駆けつけてくれた。そして当時の先生を知っていると家に電話をしてくれたが、先生は留守で行き先は分からないという。しかし皆の協力で何人かの消息が分かった。
 里子「高方静(女)」は陝西省の中学校に進学した。里子「高静静(男)」は自動車の修理工となり、今も元気で働いている。里子「高苗苗」は結婚した、今は何処に居るか分からない。そして三人の名前が間違っていると、「高艶梅」は「高国艶」。「高婷」は「高婷婷」。「高番」は「高番番」と訂正してくれた。
 その後、集まってくれた人達と学校に行った。この学校は高原を削って造った山懸ヤオトン校舎で上下二段になっている。下の校舎は廃校。その横を廻って上の校舎に行くと、幾つかある教室の中で一つだけ明るく、他の教室は廃屋となっていた。休校日と聞いたが、狭い校庭で何人かの児童が遊んでいる、杖をついた身障者もいる。現在、学校には先生は2人、児童は10人で、遊んでいる子は寄宿舎に入っているという。使っている教室を見たが、以前に来た時と同じように奇麗だった。かつて臨県の村々で里子が在学していた30余の学校を廻ったが、その中でこの学校が最も奇麗に整理整頓されていた。
 「物見高いは人の常」か、ここでも村人たちが校門に集まってきていた。そこで皆にも里子の事を聞いたが知っている人は居なかった。やはりこの里子たちも学校から遠く離れた山村が故郷で、寄宿舎生活をしていたのか。
 この高家湾村は黄河に面し交通事情も良く、対岸には有名な道教の白雲寺など多くの寺廟があり、その参拝客の往来で以前と変わらぬ賑わいを見せていた。しかし小学校は廃校寸前だ。学校を案内してくれた男性は、経済的に余裕ができた村人は子どもを県城とか鎮の学校に転校させると話し、そして自分の子も県城にある有名な南関小学校に転校させたと言った。これでは村民は減らないが児童は激減し、いずれ学校は貧乏人の子と身障者だけになる。
 この県には「学校区制度」が有るのか「気」になったが、そんな「物」は有っても無くても関係ないのが中国だ。どんな物でも「表」が有れが「裏」が有る。山西省も広い。こんな村は他にも在るのだろう。そう思うと「気」が楽になった。