2000年9月、「失学児童」支援で初めて臨県に行き安業郷にある寨則上小学校を訪問。その後、県の東南にある車趕郷に向かった。県城から南に延びる幹線道路を20粁ほど走ると三交鎮、そこで左折すると車趕郷に入る。この道路の先は隣の方山県。その県境には2000m級の高山もある山脈が横たわり、郷はその麓に広がる黄土高原の中にある。
その郷には里子が在学する学校は8校に25人いた。
郷政府に表敬訪問の後、庁内で食事を用意いてくれた。(里子を訪ねて、№2参照)食事が終り、その食堂に足りなかった椅子を運んでくれた児童に付いて、私は一人で写真を撮りながら小学校に行った。着いた所は車趕小学校。そこには里子は居なかった。突然の訪問であったが校長先生は全校児童を校庭に集め歓迎してくれた。「ニーハオ」、「ニーハオ」、子供たちと握手、握手。思いかけない交流ができた。皆と記念写真を撮り「再見」、「再見」、笑顔で見送ってくれる子供。中にはジャンプして手を振っている子もいた。
この学校も見知らぬ者の訪問であったが、先生は授業を中断し歓迎してくれた。今迄に寄った何処の学校も私の名刺の肩書を見てなのか、外国人が珍しいのか、その歓迎のワケは分からぬが何時も感動する。それが国際主義かと私は勝手に思い次のチャンスを狙っている。
*叢羅峪小学校
5月22日の午後、高家塔村を離れ黄河沿いの道を10粁ほど北上する。この小学校は叢羅峪鎮の中心街にある。以前、私はこの学校には2回訪れていた。(里子を訪ねて、№14参照)
学校は中学と小学合同で校舎も校庭も大きく寄宿舎もある。かつて里子は11人が在学していた。
鎮の街に入ると、直ぐに大通りに面した見覚えのある茶色の校門が目に入った。校舎も当時とまったく変わっていないが、ここも学校名の看板が門柱に無く廃校となった感じ。
校門の前に屯している数人の若者に聞くと小学校は郊外に移転した。車なら直ぐに行けるという。教えられた道を東に走り、街を抜けると黄土高原の麓に入る。しばらく走ると聞いてきた黄色い塀の学校が見えてきた。鉄柵の校門を入ると広い校庭、その廻りを平屋と二階建ての校舎が囲んでいる。職員室で李艶生校長と数人の先生が迎えてくれた。旧い学校時代の事を話した後、例によって里子の名簿を見てもらった。李校長も先生方もみな新しく里子が在学していた当時の事を知っている人はいなかった。しかし先生の一人が里子「王飛霊」を知っていた。彼は学校を卒業した後も故郷の堡子峪村に住んでいる。両親はすでに亡くなっていると、教えてくれた。
これは里子に再会できる機会であった。私は里子の王飛霊を尋ねたいと言ったが、先生はその村に行くには来た道を戻らなけれがならない。しかも村の何処に住んでいるか分からない、捜すのに時間も掛かるという。
私は、いま彼は農業だけで生計を立てているのか。どんな村なのか。嫁さんは、子供は居るのか。小学校時代の事も聞きたかった。しかし里子の詳しい居所は知らない。どのくらいの時間が掛かるのかも分からない。仕方がない残念だが諦めた。
この鎮の南に黄土高原が張り出している。その先端の頂に廟が見える。車で登れる広い道があるので参観に行った。そこは鎮の守り神で道教の廟。思っていたより大きい境内。こんな地方に、それも絶壁の上によく建てたものだと感心した。また、そこからの展望が素晴らしい。眼下に黄河の雄大な流れ。その対岸は陝西省の黄土高原。その先に果てしなく広がる高原の彼方はゴビ砂漠か。廟の裏側に行き眼下を見ると、高原に挟まれた平野に植樹したのか奇麗な緑の森が広がっている。その中にいま訪れて来た小学校がまるで積木細工の様に見えた。
駆け足の旅はまだ続く。 |
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