2004年9月。私は埼玉県日中友好協会派遣の留学生を引率し山西大学の専家楼に宿泊していた。そこに川口市のS君が山西省の盂県に行きたいので同行して欲しいと尋ねて来た。彼も県協会が派遣した留学生で数年間中国語を学んできていた。
当時、東京で「慰安婦」問題の国際公聴会が開かれ、山西省盂県の女性数人が初めて世界に向かって自らの性暴力被害を訴えた。そして被害者十人が日本国家を相手に謝罪と損害賠償を求める裁判を起こした。この事があって日本国内でこの「慰安婦」問題について関心が広がっていた。S君もこの問題に関心を持った一人で、旧日本軍による山西省の蛮行を調べていて、かねてから私と山西省を廻りたいと言っていた。
私も「慰安婦」問題について知ってはいたが、被害者へ人間的な心を持って向き合ってきてはいなかった。この機会に少しでも女性たちから直に話を聞くことができれば、と思った。
私たちが出発した時はまだ残暑が残る熱い日が続いていた。盂県は山西大学のある太原市の東へ約80粁の所にある。運転手は何時もの崔さん。2時間ほどで盂県に着いたが、城内の渋滞にはまり二進も三進も行かない。1時間で数百米ほどしか進まない。苛々しているとようやく交通整理の警官が駆けつけてきた。何とか城外に抜けたがその後も道が悪くスピードが出せない。S君が訪ねたいという西烟鎮に着いたのは昼近くとなってしまった。
早速、鎮政府を訪れ「慰安婦」についてお願いした。対応してくれた若い役人は、食事をしながら話をと近くの飯店に誘ってくれた。例によって拉麺を食べながら話を聞いてもらった。役人は、彼女たちはこの鎮には居ない。現在住んでいるのは、他の鎮とか郷の山村と聞いたことがある。そこはこの西烟鎮からは遠く離れた地方で、詳しい住居は分からない。尋ねて行っても時間はかかる。たとえ会えたとしても初めての人にどこまで話をしてくれるか分からない。宿泊所は無い。野宿覚悟で無ければ行けない、と親切に分かりやすく話してくれた。S君がっかりしたが仕方がなく、諦めるしかなかった。
すると役人は私たちに、かつてこの鎮を占領した旧日本軍の陣地跡を案内してくれるという。そこは黄土高原の高台で今も砲台が残っている。(「盂県志」によると、日本軍は河北省から山西省に通じる幹線道路上にある盂県を占領すると、県内各地に陣地を築き太原に侵攻した、とある) 高原に広がるトウモロコシ畑を進んで行くと、遥か彼方に高台が見えてきた。そこは「慰安婦」が訴える惨状が繰り広げられた場所だ。私は足を止めた。まだ気持ちの中で日本人としてきちんとした謝罪の言葉が見つからないでいた。そのままで日本軍の築いた陣地に登る勇気は無かった。
引き返す途中、役人は井戸に案内してくれた。枯れかかったトウモロコシ畑にポツンとコンクリートの小さな小屋。薄暗い室内に電動ポンプと一坪ほどの水槽。覗くと底の方に緑色の水が溜まっている。そこに差し込まれた数本のビニールパイプが小窓から外に延びている。「水は油より尊い」という役人はこの井戸は鎮で唯一のもので、村民に時間を決めて給水しているといった。私はこの少ない水を見て役人に「井戸」を掘る費用を聞くと、それは学校を建てるのと同じぐらいとの返事であった。
井戸を見た後、私もS君も希望していた「学校」の参観をお願いした。(次号に続く)
*槐樹坪小学校
この学校がある槐樹坪村は、臨県の県城から西の陝西省に通じる幹線道路を15粁ほど行った青涼寺郷の山間部にある。道路に面した校舎はヤオトン。2005年に訪れた時、里子は4人と近郊の村々に10人が在学していた。その折、学校の近くに住む里子「高小艶」のヤオトンを訪れていた。(里子を訪ねて、№2参照)
今回は11年振りの訪問。学校に近ずくと辺りのヤオトン部落は取り壊され景色は一変していた。しかし校舎は変わっていない。校門の上に付いた「槐樹坪学校」の看板も元のままだ。鎖錠された扉の隙間から覗くと、校庭に雑草も無くヤオトン教室も変わっていない。しかし、廃校でなないが何となく違った雰囲気を感じた。
誰かに尋ねようと見渡したが近くに住居が無い。前に訪ねた里子のヤオトンも無くなっている。車で村人が住んでいる部落を捜した。しばらく走ると道路脇に並ぶヤオトン住居があった。その前でバイクに乗ろうとしている男女がいた。出かける様子で悪いと思ったが、馬さんから声を掛けてもらった。二人は快く話を聞いてくれた。小学校は廃校になったが今は幼稚園になっている。そして里子の名簿を見ながら、学校の近くに住んでいた里子「高小艶」は結婚した。盲目の母親は亡くなった。父親の居所は知らない。もう一人、里子「李姣姣」も結婚したが二人が今は何処に住んでいるか分からない。他の里子で知っている子は居ない、と話してくれた。
私は里子の嫁ぎ先は郷政府で調べて貰えば分かると思ったが、今回はその時間が無かった。この事業は、出来ることならそこまで調べて行けば里子の消息も分かり、話も聞けるのだがそれには時間と金が欲しい。現状では夢のような「話」だ。
今日まで廻った僻地の山村で、ヤオトン部落が丸ごと無くなり、老人同志の井戸端会議が目だっていた。このような村は嫌でも早晩廃村に追い込まれる。そのあと樹でも植えるのか。
急速に進む「里子のふるさと」の過疎化。可哀そうに里子の「故郷」は記憶の中だけになる。 |
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