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その後の里子を訪ねて(15)

1986年.山西省は外国人の旅行できる所謂「開放地区」に太原市、大同市など主要都市九ヶ所を指定した。しかし、その地方に行くにはパスポートの携帯は当然のことだが、他に居留証明書も必要であった。そして、まだ開放されてない「非開放地区」には旅行ビザ(許可証)も必要であり、それを得るには省の解放軍作戦処での手続きが必要であった。
 その頃、私はその「非開放地区」え行くため、許可証の取得に太原の解放軍総司令部を尋ねた。そこは太原城内の東北にあり、街の中央にある五一広場から北に延びる五一路を歩いた。30分ほど歩いたか、聞いてきた建物が右側に見えてきた。そこは旧日本軍が太原を占領していた時代に建て司令部を置いた日本様式で屋根が城の形をしている。
 私は、正門に立つ守衛の解放軍兵士に筆談で用件をお願いした。兵士は門の横にある守衛の詰所に案内してくれた。時間が掛かりそうなので外で建物を見たいと言うと「好」、しかし写真は「不」であった。
 許可証を受け取り帰る途中、確か旧日本軍の戦犯が収監されていた太原監獄所の在ることを思い出した。この辺りかと見ると建物は解体中でガレキの山。辛うじて残った両側の門柱に懸かる鉄のアーチ、その真ん中に真紅の星。それがかつて監獄であった面影を残していた。近くにいた人に聞くと、この跡に集合住宅を建てると言った。
 その後も何回か「非開放地区」に行ったが、公安からチェックを受けることは無かった。そこで許可証の取得が面倒臭くなり、黙って旅に出かけた。
 私は旅の途中で「学校」を見つけると寄りたくなる。それは1990年代のある年。雁門関の遺跡を見に行った時、偶然立ち寄った小さな学校での体験からである。雁門関に近ずくと運転手の梁さんはこちらが近道と幹線道路から旧街道の山道に入った。しかし道は徐々に狭くなり、水の少ない川原を走った。そこも走れなくなり私たちは歩いて登った。直ぐに部落が見えてきた。地図を見ると「白草口」とある。沢沿いに何軒かの農家が並んでいる。村に入って行くと左の高台に家がある。寄って見ると学校だ。
教室が一つだけの校舎。中を覗くと数人の児童が勉強中だ。先生は居ない。壁を黒く塗った黒板に1の字を幾つも並べて書いている子は1年生か、他の子は本を読んだり字を書いたりしている。黙って教室の後ろに廻り写真を撮っていると、入り口に帽子をかぶった中年のオジサンが顔を出した。「ニーハオ」と挨拶するとニッコリ。聞くと村の責任者という。すると村長か党の書記か。親切に学校の説明をしてくれた。児童は1~5年生で全員7人。先生は1人という。
 私は1987年に、このような僻地の学校には先生が赴任したがらないと、山西大学の孫鳳翔教授から聞いたことがあった。訳は「小さな村には何もない。商店も無ければ宿泊する家も無い。先生は農家に輪番で下宿する。田舎の食事は旨くない、口に合わない。生活習慣、宗教も異なることがある。その家の食事、習慣に馴染んだ頃に下宿先の農家が変わる。食事も変わってくる。それで都会育ちで大学出の青年は行かない」と。実情が分からず赴任した先生の悲鳴が聞こえてくる様な話であった。
 1990年.私は萬栄県廟前村にある漢武帝所縁の「秋風楼」を見に行った。その近くに在る小学校にも寄った。その時、この学校の先生は近くに住むオバさんもいるという話を聞いた。この白草口村も同じような状況だと、オヤジさん。後から顔を見せた先生は農民のような中年男。私たちの話に頷きながら聞いていた。
 記念写真を撮って「再見」「再見」。みな笑顔で手を振り見送ってくれた。あとから写真を村宛に送ったが返信は無い。
 その小さな学校の体験、これが私の「ヤミ付き」の始まり。



*高家坪小学校
 5月22日の午前。この学校を訪ねる予定で前の夜は高家坪村に近い磧口鎮に泊まった。そこは黄河の岸辺にある旧い石造りのヤオトン豪邸。そこを観光客用に改装した飯店。朝になって朝食付きでないことに気がついた。以前ここに泊まった時は朝食があった。今回確認しなかったのが失敗であった。早朝で近くの店は開いていない。仕方なく車の中で馬さんが持っていた固い揚げパンを齧りながら学校に向かった。高家坪村は臨県の城内から来た幹線道路沿いの村で鎮の北はずれにある。その日は日曜日であったが、この地方は休校日が決まっていないという話を聞いていた。学校に着くと幸い授業はやっていた。私は初めての訪問であったが、校舎は思っていたより大きかった。職員室を訪ねると張建斌先生が一人。10年前に1人在学していた里子の話をした。先生は、その当時より学校は大きくなり、今は児童が約100人で先生は18人と、学校の状況を話してくれた。そして里子が在学していた当時の先生を呼んでくれた。4年生であった里子「杜奇傑」は卒業すると太原市に出た。今もそこで働いていると、教えてくれた。
 この磧口鎮も、山間部の過疎地で住む人が居なくなり、学校は廃校となっていた。しかし鎮に近い村の学校は以前より大きくなっている。それに寄宿制小学校も多くなっている。臨県の郷や鎮にはこれといった大きな工場は無いが、村から農民が一家で街に移住するのは、街のビル建築、道路や橋の整備、高速道路建設などインフラ整備の仕事があるからか。
 農民が自ら農地を放棄するのは、政府が進める「農地を森に帰す」政策にとっては「一石二鳥」か。余計な事だと思うが、そんなことを考えながら次の学校に向かった。